いろいろ備忘録 ー 西口一希

停止中だったブログですが、引っ越して再開することにしました。

私たちは、無意識に左右されている 2 ー 西口一希

脳の働きは、実際にはかなり複雑で、一般に言われている、右脳・左脳のような単純機能でもなければ、直感をつかさどる特別部位があるわけでもありません。

 体全体の感覚器を通じて、様々な”刺激”を統合的に脳が捉え、その電気的”反応”として脳が総合的に機能し、その直結する働きとして、アドレナリンなどの体内のホルモン分泌・血流・脳神経細胞への電気信号の変化が起こり、呼吸・脈拍・筋肉の緊張弛緩を左右し、行動はもとより感情をも左右しています。

 様々な刺激の統合的結果として起こる、一瞬の行動や変化を、後解釈で把握しているのが”意識”で、それ以外はほとんど”無意識”の働きと考えれば分かりやすいです。何らかの刺激に対して行動を取った場合、その事後に、なぜその行動をとったのか、なぜ好きなのか嫌いなのか、なぜ右に歩いたのか、などのおこってしまった行動に説明・理由をつけると、それが”意識”として認識されます。

 しかし、残念ながら、多くの場合、この”意識”解釈は間違っている場合が多いようです。意識は(=私としての主体)、非常に合理的であろうとします。意識できることは、人に文字化して伝えられることが多く、説明のためのに、ますます合理的な理由と解釈を作り出します。しかし、それは、無意識の理屈(逆説的ですが)とは、まったく関係のない”汚れのない嘘”である場合が多いのです。

 ”なんとなく”は、五感で受け取る、何らかの刺激の集大成の結果なのです。しかし、意識として、その刺激がなんであるかリアルタイムで解釈できないので、起こった行動や、情動に対して、適当な理由、もっともらしい理由や原因を思いついてしまうのです。

 つまり、”意識”の主体としての私が、自分の行動が合理的理由に基づいていると信じていても(信じたくても)、”無意識”下の”もう一人の私(本当の私?)”は、全く異なる刺激で、その行動を取っている場合が多い、ということです。

 こう考えると、私という主体(=意識)は、無意識に操られる”動物的”な私という肉体と精神を、なんとかコントロールしようとして、頭の中で操縦かんを握っている小さな私のように思えます。

 

西口一希